アンドレ・ドラン

2019-10-23

古典回帰したフォーヴィスムの指導者

アンドレ・ドラン(1880-1954年)は、アンリ・マティスとともにフォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在。短いフォーヴィスム時代に描かれた、強烈な色彩と大胆な構成の作品が有名だが、その後作風は変化し、さまざまなジャンルの美術を手がけた。

後に古典に回帰し、新古典主義のリーダーとしても活躍。国内外の名声を得るも、戦争に翻弄されて晩年は悲惨であった。

当時の活躍ぶりにしては現在の知名度が低めだが、美術の動向や時代背景とからめて考えると、作品のおもしろみが見えてくるだろう。

代表的な作品

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アンドレ・ドランは1880年、パリ郊外で生まれた。ポール・セザンヌが父親の友人だった影響もあり、幼少時代から絵を描いていた。

8歳の時にアカデミー・カリエールに入学してアルベール・マルケやマティスと出会い、モーリス・ド・ヴラマンクとも親交を深めた。故郷シャトゥーではドラン、ヴラマンクと共同アトリエを設けていたが、兵役のためしばらく制作を休止。3年ほど後に再開する。

1905年夏、港町コリウールに滞在し、マティス共同制作を行う。地中海沿いにある港町の鮮やかな色彩は、2人に強烈な印象を残した。

秋のサロン・ドートンヌで、ドランは《乾燥中の帆》をマティスらの作品と同室に展示し「フォーヴィスム(野獣派)」と呼ばれるように。この作品は新印象派風の点描や、ナビ派風の平面的で大まかな色面など近代的な様式を混ぜ合わせながらも、激しい色彩と奔放な筆致が新しかった。

しかしフォーヴィスムは数年で終息。ドランは1907年にモンマルトルに移ってピカソら「洗濯船」の画家たちと交流したり、同時代のセザンヌを研究したりしながら、彫刻、挿絵など活動の幅を広げていく。1919年にバレエ・リュスの「風変わりな店」の舞台美術と衣装を手がけてから、バレエ関連の仕事も晩年まで続けた。

しだいに伝統的な様式に惹かれていき、1921年のイタリア旅行が決定的なきっかけとなって、作風は古典的なものに回帰。1928年にカーネギー賞を受賞して国外でも評価が高まった。

しかし、フランス文化の権威としてナチス・ドイツの宣伝に利用され、戦後に国を追われてしまう。さらに70代に入ってから感染症で片目の視力を完全に失い、その翌年には自動車事故で亡くなった。