フランシスコ・デ・ゴヤ

2019-10-23

激動のスペインを目撃した奇想の宮廷画家

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746~1828年)は、遅咲きながらも宮廷画家として成功し、貴族や王族の肖像画を多数残した。

ところが、40代で完全に耳が聞こえなくなってからは、人間心理の闇を暴き出すようなグロテスクな絵を描くようになる。特に晩年の「黒い絵」シリーズを見たら、心を病んでいたと思う人も多いだろう。

しかし改めて見てみれば、初期の作品群にもゴヤの深い洞察力やアイロニーを読み取ることができる。異端審問にもかけられたことのあるゴヤだが、たしかに作品は魔術的な魅力を持ち、現代の我々をも惹きつけてやまない。

代表的な作品

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1746年、スペイン・アラゴン地方の村に生まれ、7歳の頃に一家で移り住んだサラゴーサで青少年時代を過ごす。13歳でジョセフ・ルサーンの工房に入り修行をスタート。ここで3年間デッサンや油彩など絵画の基礎を叩き込まれたが、その後は誰にも弟子入りすることなく、自力で画家としての道を切り拓いていく。

若いうちは頭角を現せず、王立サン・フェルナンド美術アカデミーが主催するイタリア留学奨学生試験に挑戦するも、二度失敗。装飾の仕事などで私費留学資金を稼ぎ、イタリア遊学を実現させた。帰国後、野心に燃えながら首都マドリードへ上京。

カルロス3世によって王室タピスリー工場の原画画家に任命されたゴヤは、1770年代後半の活動の大部分をカルトン(タピスリーの原寸大下絵)制作に費やした。ようやく運が開けてきたのは1780年、アカデミー正会員となり、さらに会長に選ばれた頃からである。貴族の寵愛を受けながら多くの肖像画を手がけるようになり、40歳でとうとう王付き画家に任命される。3年後には新国王カルロス4世の宮廷画家となり、誰もがうらやむような地位と収入のある生活を手に入れた。

ところが1792年、順風満帆だった46歳のゴヤを悲劇が襲う。アンダルシアへの旅路で大病を患い、聴覚を完全に失ってしまったのだ。淡い色彩と軽やかなタッチの典型的なロココ式で描いていたゴヤの作風は、突如無音の世界に投げ込まれたこの時を境に、根本的に変化する。

聴覚を失ったゴヤが自身の制作の基本態度と定めたのは、「奇想(カプリーチョ)」と「創意(インベンシオン)」。《着衣のマハ》(1800-07年)と対の《裸のマハ》(1795-1800年)では西洋美術史上初めてはっきりアンダーヘアが描いたかと思えば、《1808年5月3日、マドリード プリンシペ・ピオの丘での銃殺》(1814年)では名もなき市民をキリストになぞらえるなど、それまでにない自由で近代的な作品を生み出していく。

独立戦争後、新国王フェルナンド7世に迫害を受けたゴヤは、1819年に「聾の家」と呼ばれる郊外の別荘を購入し、宮廷を離れた。この2階建ての別荘の壁は、14点の「黒い絵」で埋め尽くされていたという。全体的に暗い色調でグロテスクな題材を扱い、時に狂気を感じさせるような「黒い絵」からは、社会の暴力にさらされる人間存在について、ゴヤが深く思いを巡らせていたことがうかがわれる。

78歳でフランスのボルドーに亡命したが、82歳で没するまで絵筆を握り続けた。尽きない創作意欲の賜は、近代絵画の父エドゥアール・マネや巨匠パブロ・ピカソなど、その後の画家たちにも大きな影響を与えることとなる。