ジャン=フランソワ・ミレー

崇高な農民の姿を描いた画家ミレー!美術業界の代表的人物として君臨する彼の生涯とは

人物の概要

ジャン=フランソワ・ミレー(1814年10月4日~1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家であり、バルビゾン派(風景や農民の風俗を描いた画家たち)の代表的なひとりとされ、特に農民画で知られる人物だ。

貧しい農民の姿を描くミレーの作風は、理想的で高貴な絵画が主流であった美術業界からは反発を受けたといわれている。

ミレーの代表作「落穂拾い」は、誰もが見たことのある作品ではないだろうか。

代表的な作品

もっと詳しく!

ミレーは、ノルマンディ地方のグリュシーで農家の長男として生まれた。8人兄弟であり、生活を支えるために、農業の手伝いをしなければならなかった。

刈取り、種まき、束縛り、肥料撒きなどの農作業は、ミレーにとって馴染の深いものとなっていた。彼の農民絵画には写実的な暗さは一切なく、農民を神々しく描いているのが伝わる。それは、幼少時の経験から、そのような作風になったのだろう。

跡継ぎを期待されたが、18歳の頃からシェルブールの画家のところで絵の就業を始めている。教師から才能を見出され、奨学金を得、1837年パリの国立美術学校へ行き、歴史画家ポール・ドラロッシュの元で学び始める。

1839年ローマ賞に落選したことを機に、学校を辞めてしまう。しかしサロンへの挑戦を続け、2度の落選の末に「ルフラン氏の肖像」が入選した。アカデミズムの公認となったミレーは、肖像画家として本格的に画業をすることになるのである。

プライベートでは、1841年にポーリーヌ・ヴァージニー・オノと結婚。2人でパリに移った。しかし、1843年に妻が結核により他界。その後、新しい恋人カトリーヌ・ルメールと共にル・アーヴルへ移る。尚、1853年に結婚し、9人の子どもを儲けた。

この時期のミレーは、女性の裸体画を多く作成していたが、裸の女しか書かない女性だと言われた彼は、生活が苦しくなろうと二度と裸体画は描くまいと決意し、田園をテーマとした作品に変更したという。

1847年のサロンに「樹から降ろされるエディプス」を提出し入選。好評を得た。エディプスは、ギリシア神話上の登場人物である。

1850年のサロンには、「干し草を作る人」「種をまく人」を出品。この作品は、「落穂拾い」と「晩鐘」と共に、ミレーの代表作となっており、「種をまく人」の原画は2枚存在し、その1枚は、なんと日本の山梨県立美術館に所蔵されている。

サロンで展示した絵画は賛否両論あったが、1860年代になるとミレーの評判は上昇していったという。1867年のパリ万博博覧会では注目を集め、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与された。また、パリ・サロンの審査員に選ばれている。

晩年は、経済的に豊かであったが、認知症が悪化。仕事依頼を断る機会が増えていったという。1875年にこの世を去った。

ミレーは、フィンセント・ファン・ゴッホに影響を与えた重要な画家としても有名だ。彼は、美術に携わる者や絵画好きだけではなく、誰もが知っている。名前は聞いたことがあるという人が多いだろうと思われる貴重な画家といってもいい。

彼の作品のファンは世界中に存在する。