エドゥアール・マネ

あらゆる画家たちに愛されたマネ!彼が描き続けた天才的な表現方法に驚愕する

人物の概要

エドゥアール・マネ(1832年1月23日~1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家である。

伝統的な絵画の約束事にとらわれずに、パリの情景や人物を描き、絵画の革新のリーダー的存在として位置づけられている。

また、写実主義(現実を率直に正確に描く美術様式)から印象派(空間の光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動)への移行を促進した人物としても有名だ。

代表的な作品

もっと詳しく!

マネは、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父親はマネに法律家への道を希望したが、伯父の影響で絵画に興味をもつ。

1848年に父親のすすめで、リオデジャネイロへ航海練習船で渡るが、海軍の試験を2度失敗。父親は、芸術方面に進みたいマネの希望を受け入れたのだ。

1850年、画家トマ・クチュールのアトリエに入門。ここで多くのことを学び、イタリア旅行やオランダ旅行を通じて、オランダの画家フランス・ハルス・ヴェネツィア派のティツィアーノ、スペインのベラスケスなどの作品に触れ、影響を受けたという。

1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年に「スペインの歌手」などで初入選を果たした。

1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展では、裸の女性が着衣の男性と談笑している「草上の昼食」が風紀に反するとスキャンダルとなった。

しかし、本作品は美術史では近代美術(近代人の芸術を創造するための伝統的芸術を破壊した、19世紀後半の芸術)の始まりと見なされており、様々な画家たちに影響を与え続けている。

プライベートは、1863年にスザンヌ・リーンホフと結婚する。10年ほどの恋愛期間を経ての結婚だったようだ。「読書」などの作品で彼女をモデルとして描いている。

リーンホフは、元々父親の愛人であり、1852年に未婚の状態で息子を出産。その子どもの父親は、マネかマネの父親のどちらなのか分からないという。

1880年頃からは、梅毒により左脚の重度の痛みと、部分的な麻痺症状が発生し、苦しんでいたと考えている。この時、マネは40代半ばという若さだ。

但し、この頃、愛人であるオペラ歌手エミリー・アンブルの肖像画を描いている。彼女は、1879年12月にニューヨークで、マネの作品「マクシミリアン皇帝の処刑」を展示する企画をしている。

晩年のマネは、小サイズの果物や野菜の静物画を描いた。1880年に制作した「アスパラガスの束」「レモン」が有名である。

1883年4月、左脚の壊疽で切断。11日後に死去した。マネは、パリのパッシー墓地に埋葬されている。あらゆるグループの画家たちが参列し、ある画家は「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語っている。

マネは、カフェをテーマとしたパリの人々の日常を描いたり、上流階級の生活を描いている。また、風景画、戦争画、歴史画などの多彩さが十分に理解され、歴史上最も名の知れた画家のひとりと言っても過言ではない。

マネの作品の、ややアバウトな表現方法が若い芸術家たちへの関心を集めたのは、彼の特徴的な作風が余程の魅力を含んでいたことが伺える。