パウル・クレー

2019-10-15

死ぬ間際に芸術の爆発を起こした画家

パウル・クレー(Paul Klee 1879年12月18日 – 1940年6月29日)はスイスの画家でもあり美術評論家でもあります。だから彼の作風はシュールレアリスム(超現実的主義)でも現実主義でもない独特のモノになっています。
父親は音楽教師、母親は音楽学校出身という音楽家族に生まれました。
そういう影響もあってか、11歳でオーケストラに所属し、ヴァイオリニストとして活躍していた。
と同時に文学や絵画にも興味を抱き、迷った結果、絵画の道を歩みだす。

代表的な作品

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クレーが本格的に美術に関して学び始めたのはミュンヘンに移り住んだ19歳のころで、21歳のときには美術学校に入学をしました。
もちろん、彼は多彩な興味を我慢することなく、絵画の道を歩むと決めた後もヴァイオリンを一日弾き続けることもあったし、日記に日々の出来事や創作話を考えたり、芸術に関する考え方をまとめていました。

クレーは27歳のときにピアノ教師のリリー・シュトゥンプフと結婚し、翌年には息子のフェリックスが誕生します。
ただ、その当時のクレーはまだまだ無名で稼ぎが無かったので、リリーが家計を支えて、クレーは専業主夫として家庭を支えていました。

クレーは最初、銅版画やガラス絵というものを制作していて、31歳のときに個展を開くまでになっていました。
それと同時期に、セザンヌやゴッホという印象派の画家に影響を受け、独自の芸術家の道を歩むことになる。
このときから様々な画家と知り合うことが多くなり、特にフランツ・マルク(動物を愛し、動物と一つになろうと考えていた独特な画家)というドイツの画家と親友になる。

33歳のときにはピカソ、アンリ・マティスという現代でも有名な画家と出会い、更に絵画研究に没頭することになる。

彼が本当の意味で彼自身の絵画を作れ始めたのは、35歳のときで、北アフリカのチュニジアに旅行をしたとき、色鮮やかな大地を見て感銘を受け、ここから彼の作風は変わっていきます。
「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」 という言葉も残しています。
この年から彼の抽象的な絵画は次第に有名になっていきます。

しかし、世界大戦の勃発やナチスの弾圧により亡命した後は作品数も意欲も激減して、低迷期に入ります。
更に54歳のときには原因不明の皮膚硬化症になってしまいます。
そこからは、闘病しながら作画を続け、晩年の1939年には翌年亡くなることが分かっていたように彼の芸術が爆発します。
なんと、この年の制作数が1253作品にもなりました。
「芸術は見えないものを見えるようにする」 という彼の考えに基づき、ほとんどの作品がキャンバスではなく、布や新聞、ガーゼなどの様々なベースに油絵、水彩など色々な方法で描かれていました。

そして、彼の芸術を放出しきったように翌年55歳の彼はスイスで亡くなります。