レンブラント・ファン・レイン

2019-10-23

光の魔術師と称された画家

レンブラント・ファン・レインはオランダ出身の有名な画家であり、光と影の明暗を明確に描く技法を得意とし、圧倒的な画力をもとにさまざまな作品を残している。

光と影の使い方のうまさは生涯にわたり一貫していたが、若いときは技術を生かした「なめらかな画風」をしているのに対して、晩年は画材の良さを活かした「荒々しくも幻想的な美しさ」を持つ作品が多いなど、実は作風が変化している。

作品に用いられる画材では、西洋を紙はあまり使わず、亜麻布や大麻布から作られた紙を好んで使っていた。
同時に和紙もよく使用しており、「病をいやすキリスト」など300点以上の作品を和紙で制作している。

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レンブラントはオランダで製粉業を営む父と、パン屋を生業とする母との間に1606年7月15日に生まれた。
14歳の時にラテン語学校から飛び級でライデン大学院入学、だが数ヶ月で退学し、歴史画家のヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りし絵画を学んだ。

このときは基礎的な部分しか学んでいなかったが持っていた才能が素晴らしく、様々な人から認められため18歳にときにアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事することになった。弟子入り期間は半年だけだったが、後に自身の特徴である光の影を用いた技法はこの時に学んだとされている。

アステルダムから戻ったレンブラントは、実家にアトリエを作り本格的に画家としての活動を開始した。アトリエで様々な作品を制作し、美術関係者から評価され次第に名が売れていくようになる。

実家のアトリエが狭く感じるようになったレンブラントは1630年にアムステルダムに移住を決意。そこで友人の遠縁の親戚である女性と出会い結婚もしている。アムステルダムに移住してからも「テュルプ博士の解剖学講義」や「解剖の講義」などの作品を生み出し、様々なところから高い評価を得ることになる。ただこの頃から投機をしては失敗するなど浪費癖が目立つようになっていった。

1642年にレンブラントは代表作ともいえる「夜警」を完成させた。その作品の出来は弟子からも「夜警の前では他の作品がトランプの絵柄に見えてしまう」と評せられるほどの高いものであった。この作品により名声を得る一方で、プライベートでは1638年に次女を、1640年に長女がなくなり、さらに1642年には妻もなくなるなど不運な出来事が起きている。

そして仕事にも悪い影響がでるようなる。レンブラントはもともと完璧主義者であり、作品が完成するまでにかなり時間をかけていたため、仕事を依頼する人たちに対しても少なくない負担をかけていた。この頃には依頼者が作ってほしい作品と、レンブラントが作った作品に大きな乖離がある場合も多くなり、次第に仕事の依頼が減っていってしまった。

仕事が減少し、収入が減っているのにもかかわらず、浪費癖はそのままであったことから生活は苦しくなっていき、やがて「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」とされるぐらいの貧困生活を送ることになる。生活が好転する兆しが見えないまま1668年9月14日、レンブラントは63歳でその生涯を終えることになった。