ベラスケス

2019-10-13

「盛らない」肖像画がバズった!バロック美術界、肖像画家の巨匠!

本名、ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、スペインで活躍した宮廷画家であり、ヨーロッパ史上最大の肖像画家のひとりにも数えられるバロック美術界の巨匠です。

イタリアのルネサンス芸術の最盛期である盛期ルネサンス(1450年〜1527年)の画家たちや、カラヴァッジオ、ルーベンスらの影響を受けたベラスケスは、フェリペ4世や王族関係者だけでなく、侍女や道化など、スペイン王朝に住まう人々の肖像画も多く手がけました。

現実的でありながら、気品と威厳に満ちたベラスケスの肖像画をフェリペ4世は大変気に入り、アトリエに頻繁に出入りしていたそうです。

代表作には「ラス・メーニス」「ブレダの開城」「教皇インノケンティウス10世」「鏡のヴィーナス」などがあり、彼の作品は後の印象派の芸術家たちや美術界全体に多大な影響を与えました。エドゥアール・マネが彼を「画家の中の画家」と呼んだことでも有名です。

2010年には「紳士の肖像」が新しく発見され、2011年にロンドンで開かれたオークションにて、約3.7億円で落札されました。

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当時スペインで最も活気のあった街・セビリヤの貴族の血筋を引く家庭に生まれました。

何をやっても優等生なベラスケスでしたが、絵に対しては特に人一倍熱心だったようです。

そんな理由もあってか、12歳から6年間は義父となるパチェーコに師事し、アトリエでは、絵画の知識だけでなく豊かな教養を身につけました。

18歳で修業を終えて独立し、画家としては最高ランクの宗教画のオールド・マスターに認められました

オールド・マスターとは、十分な修練を積み、その地域の芸術家仲間の親方を務め、独立して活動した「画家」のことをいいます。

そして翌年1618年には、師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚。1622年には首都マドリードへと旅行へ行きました。

1623年には、マドリードに2回目の旅行に行った。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け、国王フェリペ4世の肖像画を描きました。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描きました。

美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたといいます。

当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていました。

ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見えます。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法から、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価しました。

帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで「ブレダの開城」を制作。他にも1637年には「バリェーカスの少年」、1644年には「エル・プリーモ」や「セバスティアン・デ・モーラ」など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していきました。

1629年、美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許されました。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結びました。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年にスペインへと戻りました。

1648年には2回目のイタリア旅行に出発し、1651年まで同地に滞在しました。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、「ヴィラ・メディチの庭園」、「鏡のヴィーナス」や「教皇インノケンティウス10世」などの傑作を制作しています。

1651年に帰国すると、1652年には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につくようになり、役人としても多忙となりました。一方で、1656年には「ラス・メニーナス」を制作し、1657年には「織女たち」、1659年には絶筆となる「マルガリータ王女」など、この時期においても実力は衰えず、大作を完成させていきました。1660年にはフェリペの娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備をとりしきりますが、帰国後病に倒れ、1660年8月6日にマドリードで61歳で亡くなりました。

ベラスケスは寡作(かさく=制作数が少ない)であり、2度のイタリア旅行や公務での国内出張を除いて、ほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたためにその作品の多くが門外不出とされ、21世紀の現在でもおよそ120点の作品のうち3分の1がマドリードにあるプラド美術館の所蔵となっています。