ヨハネス・フェルメール

2019-10-23

時代を先取りして写実的な絵画を生み出した画家

ヨハネス・フェルメールはバロック期を代表とする画家の一人である。カメラオブスキュラという装置を使って絵画を作成していたため、写真のようにリアリティのある画風をしているのが特徴。活動していたのが17世紀だというのにもかかわらず、写真のようなリアリティを持っている作品が多い。

現在残っている作品は36点と非常に少なく、日常生活をつづった手記や日記も発見されていないことから、謎の多い画家としても有名である。

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ヨハネス・フェルメールは1632年にオランダのデルフトで誕生した。
正確な誕生日は分かっていないが、同年の10月31日に洗礼を受けたという記録が残っているため、それよりも前に生まれたということは判明している。ちなみに本名は「ファン・デルフト」

21歳の時に聖ルカ組合に親方画家として登録をされている。この当時、親方画家になるには6年間誰かの元に師事して画家として下積みを重ねる必要があったが、フェルメールの師匠となった人物は誰なのかわかっていない。

33歳ときに父が亡くなると、その父が経営していたパブ兼宿屋の経営を引き継いだ。引き継いだ当初は経営が順調でありかつ義理の母も裕福であったことから生活はかなり安定していた。カメラオブスキュラというそうもこの頃に開発したのではないかと言われている。

画家としてもピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンという有力なパトロンを得たことにより、じっくりかつ丁寧に作品を作ることができた。年間に2,3点ほどしか作っていなかったが、丁寧に描かれた作品はいずれも高い評価を得ている。そうした事情がフェルメールの作品が少ない理由の1つになっている。

裕福な暮らしをしていたフェルメールだが、1970年代に第3次英蘭戦争が勃発する状況は一転。戦争の影響で彼が運営してた宿屋も経営が苦しくなり、かつ裕福だった義母も財産の大半を失ったことで、生活が次第に苦しくなっていった。

なんとか生活を立て直そうとしたフェルメールだが、なかなかうまくいかず負債を抱えるようになっていく。ただしこれがフェルメールだけが悪いというのではなく、当時のオランダは画家の数が最盛期の1/4まで減少するなと、国全体で不振だったので、その点も考慮する必要がある。

資金繰りに奔走するなどさまざまなことをしたが、結局どうにもどうにもならず、多額の借金を抱えたまま43歳のときに亡くなってしまった。死因はまだわかっていない。

生前、高い評価を得ていたフェルメールだが、実は18世紀の頃には一切評価されていなかった。フェルメール自身が生み出した作品がとても少なかったことと、その数少ない作品を所有者が大切に保管してたことが原因である。

フェルメールが再び評価されるようになったのは19世紀になってから、当時のフランスは写実主義という新しい潮流が登場してきており、その潮流とフェルメールの作風が合致したことから、再び高い評価を得るようになった。